あれは、歯列矯正を始めて半年が過ぎた頃のことでした。透明なブラケットと白いワイヤーにもすっかり慣れ、矯正生活のストイックさにも少しだけ気の緩みが出てきた時期だったと思います。その日、友人とランチに出かけた先の店は、食欲をそそるスパイスの香りが立ち込める人気のカレー専門店でした。私の頭の中では「矯正中、カレー、ダメ、絶対」という警告音が鳴り響いていました。でも、目の前で友人が実に美味しそうにバターチキンカレーを頬張る姿と、店内に充満する魅惑的な香りに、私の意志はもろくも崩れ去りました。「一口だけなら、大丈夫だよね…?」。その一口が、全ての過ちの始まりでした。一口は二口になり、気づけば私も友人と一緒にナンをちぎり、カレーに浸していました。その時のカレーの美味しかったこと。久しぶりに食べるスパイスの刺激は、まさに禁断の果実の味でした。食事を終え、急いで化粧室で歯を磨いた私は、鏡を見て愕然としました。口の中にあったのは、私が知っているクリアな矯正装置ではありません。全てのブラケットについている透明なゴムリングが、まるで示し合わせたかのように、鮮やかな蛍光イエローに変わり果てていたのです。その色は、想像を遥かに超えるほどのビビッドさで、まるでハイライターペンのインクを口に含んだかのようでした。その日から、次の調整日までの地獄の三週間が始まりました。人と話すときは常に口元を手で隠し、笑うときも唇を固く結んで歯が見えないようにする。矯正を始める前よりも、ひどいコンプレックス状態に逆戻りです。同僚からは「歯、どうしたの?何か挟まってる?」と無邪気に聞かれ、そのたびに私の心は深く傷つきました。たった一杯のカレーへの油断が、これほどまでの精神的苦痛をもたらすとは。あの日の絶望感と後悔は、矯正を終えた今でも忘れられない、苦い思い出として私の心に刻まれています。