歯列矯正治療において、ブラケットやワイヤーといった矯正装置が歯に力を加え、歯を動かしていくことはよく知られています。しかし、これらの装置を歯にしっかりと固定し、治療をスムーズに進めるためには、目立たないながらも非常に重要な役割を果たしている「接着剤(歯科用接着材)」の存在が不可欠です。歯列矯正で使用される接着剤は、単に装置を歯にくっつけるだけでなく、治療期間中の様々な力に耐え、かつ治療終了後には綺麗に除去できるという、相反する特性が求められる特殊な材料です。矯正治療で主に使用される接着剤には、いくつかの種類があります。最も一般的なのは、光を照射することで硬化する「光重合型レジンセメント」です。これは、ペースト状の接着剤を歯の表面とブラケットの裏面に塗布し、ブラケットを適切な位置に配置した後、専用の光照射器で光を当てることで数秒から数十秒で硬化します。操作性に優れ、硬化時間をコントロールできるため、多くの矯正歯科医に用いられています。また、化学反応によって自然に硬化する「化学重合型レジンセメント」や、光と化学の両方の作用で硬化する「デュアルキュア型レジンセメント」なども、用途に応じて使い分けられます。これらの接着剤は、歯の表面のエナメル質にしっかりと接着するだけでなく、矯正治療中に加わる噛む力やワイヤーからの力に耐えうる十分な接着強度が求められます。しかし、強すぎると治療終了後にブラケットを外す際に歯の表面を傷つけてしまう可能性があるため、適度な強度であることも重要です。さらに、接着剤自体が唾液や飲食物の影響を受けにくく、変色しにくいこと、そしてフッ素徐放性(フッ素を少しずつ放出する性質)を持ち、ブラケット周囲の虫歯リスクを低減する効果があるものも開発されています。このように、歯列矯正用の接着剤は、治療の成功を陰で支える非常に高機能な材料なのです。患者さんにとっては直接触れる機会の少ないものですが、その品質と歯科医師の適切な使用技術が、快適で安全な矯正治療の基盤となっています。